こどものくにからきたオトナコドモ

オトナの世界に住むすべてのオトナコドモ達と、一緒にいろんな答えを見つけていくブログ。

オトナのくにの『ナゾの文化』①

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たとえば会社で。

たとえば家庭で。

たとえば友人関係で。

たとえば恋人同士や夫婦間で。

 

それってなんかおかしくない?と思う時。

本当はもっとこうしてほしいと思う時。

コレをやめてほしいと思う時。

誰かの言動に納得がいかない時。

何か意見が食い違う時。

…etc…

 

「ダレかとワタシが違う時。」

 

そんな時

「他人とはできるだけぶつかってはならない」と

反射的につい言葉を飲みこんでしまう

あの"つぐみ癖"は、なぜだろう?

 

「なるべく事を荒立てないように」と

その場に流れる

あの"暗黙の了解"は、なんだろう?

 

相手の言うソレと

わたしの思うコレが違っていても

別にいいのに。

 

あなたの考えと

わたしの考えが

たとえ少し違っていたとしても

何もオカシイ事なんかないのに。

 

だって。

 

生まれた場所も

家族も

育った環境も

通った学校も

出会ってきた人たちも

重ねてきた思い出も

好き嫌いも

得意不得意も

信じるものも

認めたくないものも

その背後にあるバックボーンも

物事の見方や捉え方も

今置かれている環境や立場も

ぜんぶぜんぶ、ぜーんぶ違うはずなのに。

 

同じ目で見て

同じ心で感じて

同じ細胞で触れて

同じ脳ミソで考えて

生きてきたわけじゃないのに。

 

だってさ、だってさ、

 

アナタが見ている"赤色"と

ワタシが見ている"赤色"が

はたして同じかどうか?なんて

どうしたって確かめようがなくて。

 

ワタシたちは、お互いに、

"ワタシと違うものだらけでできたアナタ"同士。

 

だから、

『違うこと』は当然のこと。

 

 

 

それなのに。

 

いつのまにか

『違うことは良くないこと』と思い込んだ

ワタシたち。

 

違ったって、全然いいと思わない?

 

たまたまワタシは

"この解決方法"しか、知らない。

 

それに対してアナタは

"その解決方法"しか知らない。

 

そしてダレかは

"別の解決方法"しか知らない。

 

 

どれも「正解」かもしれないし

どれも「間違い」かもしれない。

 

 

そんなの、誰にもわからない。

 

全部、

試してみなきゃ、わからない。

 

でもきっと

全部試してみたところで

そんなのは

時代や場所や立場や相手が変われば

いくらでも簡単に変わってしまう。

 

ほら、だからやっぱり、

「正解」もなければ

「間違い」もない。

 

ワタシにも

アナタにも

ダレカにも

それが正解か不正解かなんて

誰も言えないし、決められない。

 

きっと、わたしたちは

正解や不正解を見つける達人になっていて

自分にも、他人にも、

いとも簡単に

◯や✖️をつけてしまうことが

とてもとても上手になったんだね。

 

でもさ。

 

違ったって、よくない?

 

コレもソレもドレも

ただの『個性』じゃない?

 

「アナタの答えは、ソレなんですね。」

「ワタシの答えは、コレです。」

「アナタの答えとワタシの答えは少し違いましたね。」

「でも、それもいいですね。」

で、良いと思わない?

 

認め合えれば

違ったって、ぶつかったって、

何だっていいと思わない?

 

そう思わない?